5月5日は端午の節句? こどもの日?
-それぞれの意味や由来、菖蒲の意味とは

5月5日は端午の節句? こどもの日?<br />-それぞれの意味や由来、菖蒲の意味とは

4月に入り新入生・新社員コーナーが終わると、耳に入るのが「♪屋根より高い鯉のぼり」の歌。頭上を泳ぐ鯉のぼりもまた、4月終わりから5月にかけての風物詩と言えますね。毎年、東京タワー・スカイツリーなどに沢山の鯉のぼりが飾られたこともニュースで紹介されますね。東京タワーの鯉のぼりは「端午の節句」恒例企画と言われていますが、5月5日のことを「端午の節句」と呼ぶ方もいれば「こどもの日」と呼ぶ方も。

「端午の節句」という言葉を聞くと、雛祭り(桃の節句)と対になる男の子の成長を願う行事というイメージを持たれる方が多いのではないでしょうか。しかし「こどもの日」は男女関係無く祝われるイメージですよね。今回はそんな端午の節句・こどもの日の定義や由来・歴史などを見直したいと思います。

端午の節句・こどもの日について

端午の節句とは

端午の節句はかつて日本の祝日とされていた“五節句”の一つで、新暦5月5日を指す言葉として使われています。菖蒲(しょうぶ)を使った風習があるため菖蒲の節句・五が重なる日のため重五の節句とも呼ばれていますし、現在は国民の祝日である「こどもの日」としても知られていますね。かつては男の子の初節句・男子の健やかな成長を祈る日とされていたこともあり、特に男の子のいらっしゃるご家庭では鯉のぼりや鎧兜など飾り物を出すことも多いのではないでしょうか。

端午というのは元々「端(はし)の午(うま)」の日、月初めの午の日を指す言葉でした。特にこのが重なる日である、午の月(5月)の最初の午の日(5日)を節句としてとらえたのが端午の節句というわけです。十二支を「子、丑、寅……」と数えていくと午は5番目ではないので変な感じがしますが、古い時代には冬至が含まれている月(旧暦11月内/新暦12月内)が“子”とされていました。理由としては“子”という字が「了(終わり)」と「一(はじめ)」に分解できることから、太陽の位置が最も低くなったあと再び高くなる冬至とマッチするためだと考えられています。

ともあれ、旧暦で5月5日に行なわれていた端午の節句。現在は太陽暦(グレゴリオ暦)に切り替わっているため、昔とは日にちが異なっているものの、節句は季節よりも日付が重視される日。また国民の祝日「子供の日」となっていることもあり、現在でも同じくカレンダーにある5月5日に行なわれることが大半となっています。ただし稀に旧暦の5月5日に該当する日、もしくは旧暦に近い季節感になる新暦6月5日に端午の節句を行う地域もあります。

五節句とは

五節句の節句とは、かつて季節の代わり目として重視されていた節目の日のことを指します。
ここで登場するのが古代中国の占い的な考え方で、古い時代の中国では奇数を“陽数”という縁起が良い数・運気が良くなる数であると考えていました。しかし陽数(奇数)が重なると陰に転じる=良くない方になるという考え方もあったため、その季節に適した植物を取り入れることで邪気を払うという考え方がなされるようになります。

季節の変わり目・節目であると同時に、これからも元気に幸せに生きていけるよう災厄を祓う日にしよう、ということですね。節句の起源といえる古代においては収穫祭のようなお祭り・風流を楽しむ行事というわけではなく、節句は厄払いを行う日として重視されました。しかし後に儀式としての形式や宴会・幸福祈願のニュアンスの方が強くなっていったと考えられています。

この節句の考え方は奈良時代前後には日本にも伝わっており、江戸時代には幕府が公的な祝日として“五節句”を定めます。明治に五節句は廃止されてしまったものの、現在の日本でも五節句である

に季節行事を行う風習が残っています。

1月7日だけは元日との関係があるため7日となっていますが、他の節句は全て奇数のゾロ目。五節句は「日にち」で定められているということが分かりますね。冬至や節分など、二十四節気もしくは雑節と呼ばれる日は太陽の運行の関係から年度によって日にちが変わりますが、五節句については毎年同じ日にちに行われているのが特徴でもあります。

こどもの日とは

「こどもの日」は1948年(昭和23年)に定められた、日本の「国民の祝日」の一つです。
ちなみに子供の日ではなく「こどもの日」と書かれているのは、子どもでも読めるように平仮名表記にしたとも、一部団体が“供”という字は従者とか手下のようで良くないと抗議したためだとも言われています。日にちについても端午ではなく上巳の節句(3月3日)や新学期の4月1日など様々な案が出ていたそうですが、希望が多かったことや、全国的に気温が上がって気候が良いことなどを考慮して5月5日が選ばれたそう。男尊女卑的な意味合いで男の子の節句だった5月5日が選ばれたというわけではありませんのでご安心を。

日にちは端午の節句と同じく5月5日とされているため端午の節句=こどもの日と認識している事も多いですが、実は定義としては別物。日本の祝日について定められた『国民の祝日に関する法律(第二条)』では“こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する”ことが趣旨とされています。母の日に近いニュアンスも持ち合わせているんですね。

日本では江戸時代頃から、桃の節句=女の子の日・端午の節句=男の子の日として男女別に祝われてきた歴史があります。しかし昭和に入って「こどもの日」が作られたことで性差なく祝われるようになったと言えます。現在でも端午の節句と言われると男の子のイメージを持つ方は少なくないでしょうが、こどもの日には男女差がなく、母に感謝するというフレーズが含まれてもいることが違いと言えますね。

また“母に感謝する”というフレーズは大人であっても該当すると捉えられます。みんな誰かの子どもですし、子どもがいる男性であれば妻もまた母であるとも言えますからね。そうして考えると「こどもの日」とは言うものの、ニュアンス的には「家族の日」に近いものを感じる事もできます。

家族イメージ

端午の節句(菖蒲の節句)の起原・歴史とは

端午の節句の起原は中国

他の節句行事と同様に、端午の節句についても起原は古代中国にまで遡ります。現在でも日本の端午の節句とは全く異なりますが、中国では旧暦5月5日に「端午節」としてイベントが行われたり、粽(ちまき)を食べるなどの風習が残っています。同じく古くは中国文化の影響を色濃く受けていた朝鮮半島でも、祝い方は異なるものの旧暦5月5日に行事が行なわれています。

中国で端午、5月5日が特別な日と見做され節句行事が行われるようになった理由は断定されていません。諸説あるというのが現状ではありますが、その中でも有力視されている説を2つご紹介します。

屈原にまつわる逸話が発祥説

諸説ありますが、端午の節句、その起原とされる端午節は今から約2300年前、紀元前に栄えた中国の王朝“楚”が始まりではないかと言われています。楚の国の王の側近には屈原という人がいました。屈原は非常に頭が良いだけではなく、正義感が強く人望もある人。しかし同僚の陰謀によって地位を追われ、失意から国の行く末を憂いながらも汨羅江(べきらこう)に身を投げることで自らの命を断ってしまいます。日本ではあまり有名ではありませんが、屈原は春秋戦国時代を代表する詩人でもあり、中国では悲劇の英雄として人気のある人物でもあるそうですよ。

さて入水自殺してしまった屈原。彼は他の官僚からは妬まれていましたが、民衆にとっては正義感あふれる素晴らしい人。屈原を慕っていた人々は皆川へと船を出し、遺体が魚に食べられないようにと太鼓などを叩いて大きな音を出しながら捜索します。しかし彼は発見されず、人々は命日である5月5日に竹筒に米を入れて汨羅江へと投げ入れ供養するようになったというのがこちらの説。

『続斉諧記』では後に屈原の霊があらわれて「この縁には龍がいて投げ込んだ供物を食べられてしまう。厄除けの楝樹の葉で包んで、五色の糸で巻いて欲しい」と伝えたそう。この言葉に従って粽が作られるようになり、端午節や端午の節句に粽を食べるという風習が定着するようになったという伝説もあります。ちなみに現在の中国で端午節に行われている龍船(ドラゴンボート)レースも、屈原を探した・屈原を偲んで川に船を出したものが起原なのだそうです。

午(うま)を悪月とする考えが発祥説

十二支で“子”が終わりと始まりを示すものとして冬至・真北を表すのに用いられたのに対し、“午”は夏至や真南を表すのに利用されました。時計で言うところの12時が子、6時が午に該当します。余談ですが、地球上で赤道と直角に交差する南北線を「子午線」と呼ぶのも、実はその名残。

かつて一年で最も太陽が低く日照時間の少ない冬至は「ここを境に太陽が再び強くなる日」であると捉えられていました。そのため冬至は陰から陽に変わる日=運気が上昇する境目の日であると、比較的好意的に受け取られてたんですね。“一陽来復(いちようらいふく)”という言葉も知られていますね。

では逆に夏至はどうなのか。
夏至は一年で太陽の位置が最も高くなり、日照時間が長い日。陽気の極みという見方もできますが、この日を境に日が短くなっていく=運気が衰退する兆候が現れる日とも取れます。このため古代中国では午の月(旧暦5月)もまた悪月、つまり良くない月であると考えられました。さらに5月5日は“午”が重なる悪の頂点・しかも奇数のゾロ目だということで忌日とされます。恐ろしいことに、この日に生まれた子どもは親を殺すという民間信仰もあり、生まれた子を捨てることもあったそうです。

こうした“5月5日は最も悪い日である”という考え方から、人々は悪疫邪気を祓う行事を行うようになったというのがこちらの説です。6世紀に成立したとされる年中行事や風習の記録『荊楚歳時記』では五月五日として、人々は野に出て薬草を摘み、蓬で作った人形を飾る・菖蒲を入れた酒を飲む・蘭(※蘭草/フジバカマ)を入れた湯に入って邪気や穢れを祓ったという記述があります。

気候としても旧暦の5月は今の6月くらい、湿気が増えて暑くなり始める時期だったという側面もあります。行基が萬栄しやすいこの時期に、殺菌作用などを持つ薬草を使った儀式を行うことは厄除け=病除けとして有効性があったという見解もあります。ちなみに屈原の霊が粽を包むように言ったとされる楝樹(センダン)も香りが非常に強く、葉には防虫作用があり、古くは果実や樹皮を生薬として利用していたもの。古くは「香り高い植物ほど邪気を祓ってくれる」と考えられていましたから、端午は様々な民間信仰や経験則・故事が組み合わさることで成立した行事であると言えるかもしれません。

ちまきイメージ

日本で古来の文化と合体し“端午の節句”に

日本に中国から5月5日に行う端午の節句(端午節)が伝わったのは奈良時代頃と考えられていますが、それ以前から旧暦5月に行なわれる“祓え”のような行事は存在していたではないかとも言われています。というのも、日本でも旧暦5月(現在の6月)は梅雨入りの時期。湿気が多く物が傷んだり黴びたりしやすい時期ですし、体調も崩しやすくなる頃合いでもあります。また農耕国でもありましたから、降水量の関係や川の氾濫なども心配事だったはずです。こうした事情から日本でも古くから5月は要注意の月、という認識はあった可能性が高いと考えられます。

そして古代日本には田の神様がいるという民間信仰もありました。日本で田植えは一種の神事として扱われており、稲を最初に植えるのは生命を産み出す女性の役割とされていました。今でも“早乙女(さおとめ)”という言葉が使われますが、古い時代には田植に際して田の神を祭る特定の女性=巫女的な意味合いを持っていたと考えられています。この早乙女達は田植えを行う前に、神様をお迎えするために身を清めて穢れを祓う「五月忌み(さつき忌み)」と言われる忌みごもりを行っていました。

この「五月忌み」については日本古来のものであるという見解と、豊穣祈願に中国から伝わった端午の風習が混ざって出来たという見解と、両方の見方があります。ともあれ奈良時代頃には中国の上巳節の風習も伝わり、天皇のもとで開催される公式行事「端午節会(せちえ)」が行なわれていました。宮中では菖蒲や蓬を屋根に葺き、菖蒲を髪飾りにしたり、菖蒲を入れた酒を飲む・風呂に入る文化が定着しますし、『続日本紀』では“冠に菖蒲蔓をかけるように”という場面も描かれています。ボートレースではないものの騎射(うまゆみ)という競技も行なわれていたようです。

平安時代の端午の節句(端午節会)については『源氏物語』などの文献にも登場しており、清少納言が記したとされる『枕草子』では天皇や貴族だけではなく下々の家でも軒に菖蒲や蓬を葺いていたことも記されています。また当時の貴族の間では「薬玉(くすだま)」を献上したり、プレゼントし合うことが流行していたことも分かっています。

この薬玉というのは薬草や香料を丸く固めたものを錦の袋に入れ、菖蒲や蓬などを結びつけて長い五色の糸をたらした豪華なもの。薫り高いことから不浄をはらい邪気を避けると考えられていたため、平安貴族達にとっては厄除けのお守り・延命長寿や無病息災を願う開運グッズだったと言えます。ちなみに現在パーティーやセレモニーで使われている飾り玉・割り玉の“くす玉”のルーツでもありますよ。

端午の節句は女性の日?

端午の節句やその歴史について調べていると、古くは女性が主体の節句であったという言葉を目にします。こちらの見解については貴族文化としての端午の節句(節会)ではなく、農村部における「五月忌み(さつき忌み)」と中心とした田植え行事であると考えるべきでしょう。

古くは田植えをする女性が神様をお迎えするための物忌をしていました。見方を変えると田植え仕事に女性は無くてはならない存在。穢れや邪気を払うという意味合いもあったのでしょうが、物忌のために女性が籠もる家には菖蒲をふいた屋根が付けられていました。この時に女性たちが籠もる家は「女の家」と呼ばれ、前日の5月4日もしくは5月5日の夜を「女の夜」と呼ぶ地域もあります。

現在でも「菖蒲湯には女性から入る」「菖蒲酒は女性が飲むと良い」など女性優先と考えられるルールが残っている地域もあります。江戸時代以前の庶民には基本的に節句を祝うという風習はありませんでしたから、女性にとって特別な日である=女性のための節句であると言えなくもありません。ただし都の貴族達は騎射や競馬など武張った行事も行っていましたし、平安後期には歌詠みの会のような形になっていたそうなので、女性だけの節句行事だったというわけではないでしょう。

端午の節句が男の子の節句へ

平安貴族に重要視されていた節句の一つである上巳の節句ですが、武士が台頭した鎌倉~室町時代頃になると風流さを競うような節会は廃れてしまいます。しかし武士も公家と同様に縁起を担ぐタイプの人達。彼らは端午の節句で使われる菖蒲と、武芸を尊ぶ“尚武”や自分たちが命をかけて行う“勝負”が同じ「しょうぶ」であることから、縁起を担いで端午の節句を重んじたと言われています。平安時代までの端午の節句には菖蒲だけではなく蓬も使われていましたが、この時に端午の節句=菖蒲の節句がハッキリと定まったと言えるかもしれません。

さらに武士が力を持つ室町から戦国時代にかけては、商売道具でもある家紋などを入れた幟が外に立てられるようになり、鎧兜・槍・弓矢などの武具が家の中に飾られるようになります。ちょうど床の間が出来た時期でもありますしね。また武士たちは自分の厄除け・運気向上を願うだけではなく、男の子の健康や健やかな成長を願いました。男の節句が男の子の節句という意味合いも持ち始めたというわけですね。

江戸時代に入ると幕府が公式行事として定めた“五節句”の一つであることもあり、こうした武家の風習が庶民にも広がっていきます。町民達は子供の立身出世を願うために戸外に鯉のぼりを立て鎧兜は体を守る武具であることから“健やかに成長できますように”の願いを込めて室内に飾りました。この時代家督を継ぐ男の子であったこともあり、特に長男の初節句となると武家でも商家でも盛大に祝われたイベントの一つだったようです。

日本独自の端午の節句の行事食である柏餅(かしわ餅)が誕生したのも、江戸時代中期頃とされています。新芽が育つまでは古い葉が落ちない柏の葉を使うことで、家系が途絶えること無く続く=子孫繁栄の縁起物として売り出されたそうです。江戸の長屋には風呂がない所がほとんどでしたが、銭湯文化がありましたから、町民は端午の節句には湯屋へ行って菖蒲湯にも入浴していました。他の節句行事と同じく、現在私達がイメージする「端午の節句」というのも江戸時代の町人文化がベースになっていると言えますね。

菖蒲湯イメージ

そして子供の日へ

上巳の節句=女の子のお祝い
端午の節句=男の子のお祝い
と江戸時代には節句によって男女の区別が定着していました。明治政府によって“五節句”は廃止されましたが、その後も季節行事としてそれぞれの行事は残り、祝われ続けてきました。しかし1948年(昭和23年)に5月5日が「こどもの日」として国民の祝日として制定されたことで、少しニュアンスが変わってきているとも言えます。昔とは異なり、現在は女性も就職して出世を願うことが多い時代でもありますしね。

現在でも赤ちゃんが誕生した時の初節句としては上巳の節句・端午の節句と分けれられる事が多いですが、女の子だけの家庭でも鯉のぼりをあげたり、幼稚園や小学校では皆で兜を折ったりします。鯉のぼりや鎧兜などの飾り物も昔は男が飾り付けることがルールでしたが、現在は拘る必要がないとされています。今も昔も変わりなく菖蒲湯には男女差なく家族皆が入りますし、平安時代くらいまでは両節句とも男女区分は無かったので、元の形に戻ったとも言えますが。

端午の節句の代名詞、菖蒲について

菖蒲(ショウブ)とは

端午の節句は別名「菖蒲の節句」とも言われるように、菖蒲を使う風習が今も残されています。菖蒲というのは池や川などの水辺に生えるショウブ科ショウブ属の多年草で、爽やかとは称されるものの、少し青臭いような独特の香りがします。人によっては不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。

端午の節句に菖蒲が取り入れられるようになったのも、古くはこの強い香りによって邪気を避け魔物を祓うと考えられていたためです。田の神を迎えるための禊に使われたのも同様です。それ以外にも尚武や菖蒲に音が通じること、葉の形が刀に似ていることも武士が好んだ所以だと考えられています。

この菖蒲、同じ漢字なのに菖蒲(アヤメ)と読まれることもあります。同じ漢字が使われているだけでも紛らわしいのに、ショウブとアヤメは外見も似ているという非常に紛らわしい存在。近縁種のようにも感じますが、一般的にアヤメと呼ばれているのはアヤメ科に分類されるハナショウブなので全く別物です。菖蒲湯や菖蒲酒を作りたい場合には「葉菖蒲(はしょうぶ)」「匂い菖蒲」などと呼ばれるものを選んで下さい。

菖蒲湯の作り方・注意点

端午の節句を代表するものの一つ、菖蒲湯。小さいお子さんが居ないから鯉のぼりや鎧兜は飾らないという場合でも、菖蒲湯には入るという方もいらっしゃるのではないでしょうか。厄除け・健康祈願として使われた使われてきた歴史があるだけではなく、成分的にも葉菖蒲にはオイゲノールやアサロンなどの精油成分が多く含まれており殺菌作用や血行促進作用が期待できると言われています。

菖蒲湯の作り方としては葉菖蒲はかなり長いので綺麗に洗ってから三、四等分くらいに切って、輪ゴムなどで束ねたものをそのまま浴槽に浮かせるのがポピュラー。よりしっかりと香りを感じたい・菖蒲の成分を抽出したいという場合には、細かく刻んで布袋などに入れて使います。

ただし菖蒲に含まれている成分は、人によっては皮膚への刺激となる可能性もあります。初めて菖蒲湯に入る方・肌の弱いお子さんであれば刻む式は避けたほうが無難でしょう。入浴中は肌に変化がないか注意して、ピリピリするなど刺激を感じる場合はすぐに出て洗い流しましょう。菖蒲由来成分を配合した入浴剤などもありますから、無理のない範囲で取り入れることをお勧めします。

参考サイト:歳時記5月十二支

今回調べていて5月5日が大厄日的な扱いだったことを知りました。現代人の感覚としては5月5日って「GOGO!」とノリと縁起の良い日のように感じるんですけどね(笑)今と旧暦時代とは日にちも違いますし、ゴールデンウィークなので昔ながらの節句行事をするよりも旅行に行く派も多いはず。別にこだわる必要もないことですが、一回くらいは「こんな伝統行事があって、これは〇〇が元気に成長しますようにって意味なんだよ」とか教えてあげると素敵かも。自国の文化に詳しい人のほうが、他国に行っても周囲と盛り上がれるしね。

個人的には端午の節句と言うか、こどもの日と言うかでちょっと違うニュアンスを感じます。しかし子供の健やかな成長を祈るのはいつの時代であっても、子供が男の子・女の子かも関係のないこと。女の子の場合は端午の節句として鎧兜がズラーッと並べられているのを見ると敷居が高い感じもしますが、楽しめるところは取り入れてみて下さい。超かわいい鯉のぼりをDIYするとかもアリかも。