【30秒でわかる】節分は2月だけ? 豆まきする意味・理由も解説

【30秒でわかる】節分は2月だけ? 豆まきする意味・理由も解説

【30秒でわかる】節分と、豆まきをする由来

節分とは立春・立夏・立秋・立冬の前日を指す言葉。

1年に4回節分はありますが、単に「節分」と言った場合は、2月初旬にある立春の前日を指すのが一般的。
これは、旧暦での元日が“立春の前日”と日にちが近く、冬から春になる=新しいサイクルがはじまると考えられ重要視されたためです。

節分の代表的な風習と言えば「鬼は外、福は内」と言いながら行う豆まき。これは“鬼”という架空の生き物が来ないおまじないではなく、邪気や病気・災難は出ていってくださいという、厄祓いのような意味。豆まきは悪いことが起こらず、福=幸せや幸運に恵まれますように、という願いが込められた風習なのです。

節分の定番「鬼は外」の起源は、“追儺”と呼ばれる平安時代の宮中行事との説が有力。ただし、“追儺”は悪疫邪気を払う行事ではありますが、豆はまきません。豆を使う行事になったのは、室町頃から行われていた恵方に豆をまくことでお清め・厄払いをする風習“豆打ち”が影響していると考えられます。

節分と豆まきの豆知識

節分の意味・由来

豆まきや恵方巻が登場する“立春の前日”だけではなく、一年に4回ある節分。
節分が4回あること自体知らない方もいらっしゃいますし、豆まきしないのに節分って……そもそも節分って何?というところを簡単に見ていきます。

節分誕生の裏にある「二十四節気」

古代の中国や日本では、月の満ち欠けを基準に暦を作っていました。この方法で一年(12ヶ月)を計測すると、地球の公転周期とは10日前後のズレが生じることが分かっています。
3年で約1ヶ月、8~9年経てば四季が一つズレてしまう計算です。

そこで、古代中国では太陽が移動する道(黄道)を観測して24等分する「二十四節気」が考案され、暦の補助として使われました。二十四節気は太陽の動きを基準にしているので、季節変化の指標としては優秀。現代でも使われている冬至や夏至、四立(立春・立夏・立秋・立冬)などは二十四節気の考え方・呼び名です。

そして、肝心の節分。
節分は二十四節気を補うために考案された「雑節」という暦日に分類されています。ちなみにお彼岸の“彼岸”や、土用の丑の日の“土用”なんかも雑節。二十四節気は元々中国で作られたものですので、日本の気候に合わせて更に追加された暦日が雑節なのです。

節分が特別視された由来

節分は立春・立夏・立秋・立冬の前日。
前日ならわざわざ二十四節気の補助として追加しなくても、と思いますが、古くは季節の変わり目・一つの季節が終わるタイミングが重要視されていました。

なぜなら、季節の変わり目には邪気(鬼)が生じるという考え方があったため。

現代人としては邪気や鬼と言われてもピンときませんが、季節の変わり目は体調を崩しやすい時期でもあります。古代の人々は病や体調不良も、こうした悪しきモノが影響していると信じていました。当時の医者も、祈祷師に近いタイプもいましたしね。

現在の節分行事の起源とされる追儺(大儺の儀/鬼遣らい)の目的は、悪疫邪気、邪気や病気・災難を払うこと。宗教的な考えにプラスして、実際に体調を崩しやすい時期でもあれば、重要な日として儀式を行おうとしたのも納得ではないでしょうか。

また、毎月の最後の日を晦日、一年の最後の日を大晦日と呼ぶように、最後の日を重視する考え方も日本にはありました。大晦日には“物忌み”をして心身の穢を取り除くという風習もありましたから、四季それぞれの最終日である節分にも、穢れを祓う行事を行って、きれいな状態で新しい季節を迎えようと考えたのかもしれません。

節分の“鬼は外”の由来は?

鬼を追い払う、の起源は追儺

現代の節分行事の起源とされる追儺(鬼遣らい)は、元を辿ると中国で行われていた行事。
内容は、古い時代は黄金の四つ目がある仮面をつけ“方相氏”という神様に扮した人が、侲子(童子)を従え「鬼やらい、鬼やらい」と唱えながら歩き回ることで、鬼を追い払うというものだったようです。方相氏と呼ばれる神様は疫鬼や魑魅魍魎を追い払う力があるとされ、それを模したような行事ですね。

しかし、日本では、平安時代の前期~中期頃になると方相氏や侲子が“鬼”として追われるような形に変わっていきます。この理由については、分かりやすく目に見える形として追われる“鬼”の姿が欲しかったためであるとか、葬送関係でも登場する方相氏が死=穢れに通じると考えられたためである、方相氏の面が鬼に似ていた、などなど色々な説があります。

ともあれ、日本、おそらく平安時代の宮中行事として鬼を追い払う儀式(追儺)が誕生しました。宮中行事の“追儺”は時代とともに廃れ、行われなくなっていきます。ただし“鬼を追い払う行事”として追儺という言葉は残り、現代に至っています。

豆の登場は室町時代頃

節分に鬼を追い払うのに豆をまく原型は、室町時代頃に行われていた風習“豆打ち”という説が有力視されています。

昔の人は信心深く、占いも好き。
どこかに行こうとする時に、行きたい方角の方角の吉凶を占ったりします。

旅行ならまだしも、大事な用事で行かなければいけないのに“凶”がでたら困りますよね。そこで対処法として「一旦、恵方(吉の方向)を向こう」という方法が考案されます。陰陽道では恵方に進んで一泊する“方違え”という方法が使われていましたが、大変なので簡略化され、室町時代には「家の中で、恵方にある部屋に移れば良い」ということなりました。

それに合わせて、節分に、次の恵方となる方向の部屋に豆をまいて清める=厄祓いができるという方法も信じられていました。恵方に豆をまいてお清めする、これが“豆打ち”です。恵方と豆、現在の節分要素が揃っていますね。

現在の節分=追儺+豆打ち

宮中行事としての追儺は、中国に倣って大晦日に行われていました。しかし、宮中行事としての追儺は徐々に廃れていきます。民間の“鬼を追い払う(厄を払う)行事”としての追儺はあり、これが同じく邪気を払う“豆打ち”とミックスされて現在の節分行事の形に変化していったと考えられます。江戸時代には一般庶民にも、節分に豆まきをする風習が広まっていたようです。

追儺と豆打ちがミックスされたのは、旧暦では大晦日と立春前日(節分)の日にちが近かったことも関係しています。また、立春の前日というのは、春へ移り変わるタイミング。季節のサイクルで見ると一年の始まりとも言えるので、節分の中でも「立春の前日の節分」のみが特別視されるようになりました。