節分は追儺? 豆まきの由来とは
-福豆・柊鰯・恵方巻きの意味も紹介

節分は追儺? 豆まきの由来とは<br />-福豆・柊鰯・恵方巻きの意味も紹介

お正月コーナーが撤退すると、入れ替わりに登場するのが節分コーナー。バレンタインデーに押されているような気もしますが、いろいろな種類の豆商品と鬼のお面が全く無いというスーパーは無いはずです。特に小さいお子さんがいるようであれば幼稚園や学校、お家で豆まきをすることも多いと思います。最近は恵方巻きを予約していらっしゃる方も多いですよね。

節分といえば「鬼は外、福は内」の掛け声も定番。この台詞から厄除けと招福を願う行事だということも知られていますが、節分の起原や鬼って何者なのか、時折耳にする追儺という言葉の意味となると微妙。お子さんにアレコレ聞かれて言葉に詰まった経験のある方もいらっしゃるのではないでしょうか。そんな節分の起原や変遷、また行事や飾り物・食べ物は地域によってもかなり特色がありますが全国的にポピュラーである柊鰯と恵方巻きについてもご紹介します。

節分はいつ、何のために行う?

節分とは

節分と言えば豆まきをする日として有名。小さいお子さんからお年寄りまで、節分に豆をまくというのは共通認識なのではないでしょうか。ただ豆を撒くだけではなく「鬼は外、福は内」などと言いながら豆まきをするので、節分行事は「悪いものを追い払って、福を呼び込む」意味があることが窺えます。行事のほうが強く残り、その意味はあまり気にされなくなっているお正月や冬至などと比べると、何のために行っているのかが広く知られている珍しい風習の一つと言えるかも知れません。

ただし節分は本来、各季節の始まりとされる立春・立夏・立秋・立冬の前日を指していました。本来は年に四回節分があると言われるのも、このため。漢字表記の通りに「節を分ける」という日であり、新しい季節に切り替わる前・今の季節の最終日のことと言えますね。しかし江戸時代以降は特に「立春の前日」のことを指す言葉として使われるようになり、現代に至っています。

ちなみに節分は2月3日に行われることが多いですが、閏年の日には2月4日もしくは2月2日になります。1980年代半ばから2020年まではずっと2月3日が節分の予定ですが、それ以降は2月2日になる年がありますよ。節分=2月3日と覚えている方も少なくありませんが、今後は注意が必要ですね。

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節分が年に4回ある理由

現在「節分」と呼ばれる行事は2月3日前後に行われています。しかし昔の日本は現在のような太陽暦(グレゴリオ暦)ではなく、太陰太陽暦と呼ばれるタイプの暦法を使っていました。太陰太陽暦は月の満ち欠けを基準にした歴で、新月から次の新月までの期間=29日もしくは30日を一月と考えます。このため純粋な太陰暦で一年(12ヶ月)を計測すると、地球の公転周期とは10日前後・三年経つと約1ヶ月の差が生じるというデメリットがあります。8年経つと四季が一つ変わるくらいにズレていきますから、年度によってクリスマスお正月が真夏に来ることもあるということですね。対して太陽暦は地球が太陽の周りを回る周期を元にしているため季節の誤差は少ないですが、日にちと月の満ち欠けが関連していないことが特徴となっています。

太陽暦はさておき、純太陰暦は月の満ち欠けこそ分かるものの生活や季節感の指標としてはとっても不便。現在でもアラビアなどではイスラム暦(ヒジュラ暦)などの純太陰暦が使われているところもありますが、中国や日本ではそれに太陽の動きを取り入れた太陰太陽暦と呼ばれる暦法を使うようになりました。数年ごとに「閏月」を加えて1年を13ヶ月にすることで、起こってしまう地球の公転周期・太陽の運行との差を極力なくしたものですね。

また太陰暦と季節感のズレは古い時代から人々の悩みのタネであったと考えられます。
そこで登場するのが古代中国の戦国時代に考案された「二十四節気」というもの。これは季節を春夏秋冬に4等区分するために考案された暦の仲間のようなもので、太陽が移動する道(黄道)を観測してそれを24等分したもの。黄道の中で太陽が最も低い冬至・最も高い夏至の間で等分し、その中間に位置する春分と秋分を割り出します。この二至二分の間に四立(立春・立夏・立秋・立冬)を入れて八節に、節から節の間をそれぞれ三等分したものが二十四節気になります。地球が太陽の周りを一周する間を24に分けることで、季節や気温の変化を見極めていたんですね。

黄道イメージ

二十四節気は太陽の位置(動き)を元にしているため、季節変化の指標としてはかなり正確。太陰暦もしくは太陰太陽暦を使っていた人達からすると、季節を認識するためのもう一つの暦だったと言っても過言ではないかもしれません。特に季節や天候との関わりが深い農業の目安として、日本でも暦と合わせて重要視されていました。農作物の種をまくと良いと言われる4月20頃の“穀雨(こくう)”なども二十四節気の一つ。さらに二十四節気を更に3つに分けた七十二候、八十八夜などが含まれる雑節というものもあり、現在もその風習が残っていることからも当時重要視されていたことが窺えます。

そして問題の節分。こちらは二十四節気に関係するとは言っても、二十四節気ではなく雑節となります。節分の“節”は二十四節気の中で各季節が始まる日と見なされている四立、つまり立春・立夏・立秋・立冬を指す言葉。春夏秋冬が移り変わる日の前日、感覚的に言ってしまえばミニ大晦日のような日を人々は「節分」と呼んで、新しい季節を迎えるための行事を行うようになったと考えられています。

この考え方でいくと、節分は四立(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のことになりますから、一年間に4回あることになります。しかし現在はほとんどの地域で「節分」と言えば、冒頭でも触れたように2月3日ないしその前後の日のみに行われている行事。夏の節分や秋の節分行事はありませんよね。何故節分が立春の前日のみ大々的に行われているのか、そこには節分の起原・日本での歴史や暦の改定など様々な要因が絡んでいます。

節分の起原と歴史・意味とは

節分の起原は大儺・追儺

2月、立春の前日に豆まきなどを行う節分。この起原は平安時代頃から宮中行事として行われていた追儺(ついな)もしくは鬼遣らい(おにやらい)と呼ばれる儀式とされています。呼び方は違いますが「追儺」と書いて「おにやらい」とも読みますので、基本的には同じ儀式だと思って頂いて問題ありません。

さらに宮中行事とされた追儺の起原へと遡ると、古代中国(漢)で行われていた「大儺(たいな/たいだ)」という儀式があります。この大儺にせよ、平安期の追儺にせよ、現在の節分ではなく一年の終わり=大晦日に行われていた行事。何のために儀式を行うかと言えば、その年の終わりに悪疫邪気を追い払ってからゆく年を送り出し、新しい年を迎えるためでした。

悪疫邪気、つまり邪気や病気・災難を追い払うために考案された儀式が大儺ですが、目には見えない悪いものをどうやって追い払うのかと言えば、呪師が矛と盾を手にして疫鬼を追い出す作法を行っていたと伝えられています。この疫鬼を追い払う役割を持つ術士は“方相氏(ほうそうし)”と呼ばれ、中国の儒家経典『周礼』によれば熊の皮を被り、黄金の四つ目の面をつけ、黒衣に朱裳を着ていたそうですよ。

この大儺の儀式が日本に伝わったのは『続日本紀』によると文武天皇の慶雲三年、西暦706年とされています。この年には疫病が流行り各地で多くの死者が出たので、疫病を駆逐するために土牛をつくって大儺を行ったと記されています。とは言っても飛鳥時代には年末行事として毎年行われていたわけではなかったようで、宮中の年間行事として追儺(大儺の儀)が定着したのは平安時代以降と考えられています。

平安時代初期の追儺は中国で行われた行事と近く、黄金の四つ目がある面を付け矛と盾を持った“方相氏”が、童子を従え「鬼やらい、鬼やらい」と唱えながら宮中を歩き回るというもの。その後を貴族たちが桃の弓と葦の矢を持ってゾロゾロと付き従い、皆で宮中を巡回することで疫鬼を撤退させていました。余談ですが“方相氏”の役目は大舎人の中から体格の良い者が選ばれていたそう。また当時は暦の関係から立春前日の節分が元日に近く、また春へ移り変わることタイミング=一年の始まりになるとも考えられたために「立春の前日の節分」のみが特別視されたのもこの時期ではないかと考えられています。

この追儺の儀式については『延喜式』や『源氏物語』など当時の文献でも多く触れられていますが、平安時代の追儺式には私達にとっては節分のキャラクターといえる鬼も、豆(大豆)も登場しません。ビジュアル的には“方相氏”が鬼に似ていますが、鬼ではなく悪疫邪気を払う力をもった神官役と言った方が相応しい存在ですよね。

鬼と豆が登場したのは?

追儺に鬼が登場するようになったのは、9世紀の中盤~後半からと考えられています。最初のころの追儺(大儺)で追い払おうとしていた邪気というものは目に見えないものでしたが、これをより分かりやすく目に見える形が求められるようになります。そこで登場するのが鬼ですね。鬼という概念の成立については実に様々な説があり、かつ民族的な問題も含んだデリケートな話にも繋がるので割愛しますが、大まかなイメージとしては超常的な力と醜悪な形相を持ち、かつ邪念なり怨念なりを抱いているものという感じでしょうか。

当時は仏教なども普及し、様々な宗教観が合体していた時代。かつては邪気を払う超常的な力を持つ存在とされていた“方相氏”も、四つ目で恐ろしい姿をしていたために鬼と見做されるようになったと考えられています。“方相氏”に着いて歩いていたいたはずの童子についても、鬼を追いかけている者であるという認識へと変化していきました。このように“方相氏”が鬼へと書き換えられてしまった背景には異形であるという以外に、死=穢という考え方が広まったことで葬送にも関与していた“方相氏”への忌避感を高めたとする見解もありますよ。

節分の鬼イメージ

では節分の行事として欠かせない豆まきの発祥はと言うと、こちらはいつ頃から行われていたか断定されていません。おそらく鎌倉か室町時代に始まったのではないかという説が有力であり、森鴎外も短編小説『追儺』の中でも“追儺は昔から有つたが、豆打は鎌倉より後の事であらう”と記しています。

豆まきの元となった行事は、節分に行われていた「豆打ち」と呼ばれる儀式です。豆打ちの起原は陰陽道の「方違え」という風習が元ではないかと言われています。「方違え」というのは方角の吉凶を占い、行きたい方向が凶方であった場合には吉とされたの方向に出発して一泊した後、目的の方向へと向かうことで悪いことが起こらないようにしようという風習。節分の日には翌年の恵方にある家に宿を取ると良いとされていたそうです。

この「方違え」という風習は平安時代くらいの有閑貴族であればまだしも、普通に行うのは結構大変。なので室町時代頃になると家の中の恵方にある部屋に移れば良いという形に簡略化されており、事前にその部屋に豆をまいて清めておくことで厄払いをする「豆打ち」という方法が広まっていたのだとか。ちなみに豆でお清めをするというのは古代中国で大豆や穀物を使って呪術が行われていたことが日本に影響したとも、マメという音が魔滅=魔を滅ぼすことに通じるためだとも言われています。

豆打ちと追儺は共に当時の大晦日前後に行われていた行事で、かつ厄を払う為のものとその目的も似通っていました。豆打ちの風習が追儺と徐々に融合していく中で、かつて“方相氏”が歩き回るという部分から、恵方の部屋だけではなく敷地内の様々なところに豆をまく形へと変化していったと考えられます。そのほかにも飛礫で鬼を打つという儀式が行われていた時期があること、仏教系との鬼遣らいの呪法とも融合したなど様々な見解があります。実のところは誰も分かっていないとも言えますし、いろいろな要素を取り混ぜる日本独自の風習であるとも言えそうですね。

節分=豆まきが広まったのは何時代?

宮中行事としての追儺は中世には形骸化し、鎌倉・室町には廃れてしまったと言われています。しかし民間行事として節分・豆まきが広まったのも室町時代頃ではないかと推測されています。ご紹介したように追儺や方違えなどの行事が入り混じって「豆まき」になったのも同時期の話ですから、宮中行事から寺社や武家が行う行事となっていった際の混同ということもあるのかもしれません。

室町時代、1416年から1448年までの期間を記した伏見宮貞成親王の日記『看聞御記』では公家が豆まきの役を嫌がったという話が、後の1446年から73年までの期間について記されている相国寺の瑞渓周鳳の日記『臥雲日件録』には豆をまく時に「鬼は外、福は内」という声が掛けられていたこと(散熬豆因唱鬼外福内)が記されていますこうした文献の記述から、室町時代には既に“節分に豆をまいて鬼を追い払う”という風習があったことが分かります。

そして江戸時代には追儺と節分は完全に同一視されるようになり、一般庶民にも節分の風習が広まっていきました。神社などでは古くから現在に至るまで追儺の儀式を行っているところもありますが、家庭やお店などでも出来る豆まきの方が一般化しやすかったのではないでしょうか。

節分の三大名物・大豆・恵方巻き・柊鰯の意味

大豆(福豆)と豆まき

節分に行うこととして最も代表的と言っても過言ではないのが、豆まき。
スーパーでもお正月コーナーが仕舞われた後は節分コーナー設置され、大豆商品と鬼のお面が置かれていますよね。節分に使う“豆”については北海道や東北など落花生を使う地域もありますが、全国的に見た場合は大豆を使う地域が多いでしょう。近年はそのまま豆まきに使えるよう小袋に入れられていて、後片付けが楽なタイプも販売されていますね。全国展開されているスーパーやコンビニが多いこと・小袋であれば拾いやすいことから、落花生エリアと言われていた地域にも大豆を取り入れる家庭が増えています。

ほかの伝統行事と同じく豆まきも細かい取り決めはありませんが、豆は「炒った大豆」を使うことが一般的。節分にまく豆を「福豆」と呼ぶこともありますが、こちらも単なる豆ではなく炒り豆(炒り大豆)のことを指しています。大豆を炒ってから使わなくてはいけないのは、拾い忘れた豆から芽が出てしまうと縁起が悪いと考えられたため。豆は魔滅(魔を滅ぼす)に通じるとして節分に使われるようになったという説がありますが、魔芽(災難が芽吹く)にも通じてしまうと昔の人は恐れたそう。豆を炒っておけば魔芽は発芽しませんし、豆を炒るが“魔目を射る”に繋がって更にパワーアップすると言われています。

また豆をまくタイミングは節分の日の中でも“夜”が望ましいとされています。これは鬼が活動を始める時間が夜であると考えられているためです。古くは日中は人の時間、夜は鬼や妖怪などの時間という考え方があった名残と言えますね。本来は鬼が最も活発に動く丑寅の時刻(午前2時~4時)が良いとされていましたが、この時刻に行うのは無理であるということで日暮れ以降に落ち着いたそうですよ。

豆のまきの方法(順番)は地域や家庭によりいくつかパターンがありますが、ポピュラーなのは部屋の奥から玄関に向かって鬼を追い出すようにまいていく方法と、恵方にある部屋から始めて鬼門(北東)にある部屋へと向かう方法の2つ。それぞれに言い分はありますが、豆まき自体が様々な思想と宗教が合致して出来た風習ですから厳密な決まりはありません。

豆をまいて鬼を追い払った後は、福豆を食べて無病息災を願います。食べる豆の数についても自分の年の数だけ食べる・年の数+1(数え年の数)個を食べる・来年も元気で過ごせますようにと年の数+2(数え年+1)個を食べるなど地方により様々また地域によってはそのまま豆を食べるのではなく、数は気にせずに豆ごはんにして使うなどする所もあるようです。残りの福豆は保存しておいて、節分後に最初の雷がなった時に食べると魔除けになる・無病息災になると言い伝えられている地域もあります。

「鬼は外、福は内」以外の言葉も

全国的に見た場合は、節分に豆をまく時に言う言葉は「鬼は外、福は内」であると言われています。しかし鬼を祭った神社や鬼の名前が付いた地域・自分の名字や昔収めていた藩主の名前に鬼が付いている方などは別の言葉を唱えることもあります。入谷鬼子母神の名称で有名な東京の真源寺では、鬼子母神が鬼であるということから「福は内、悪魔外」と言うのは有名ですね。

また茨城県の市鬼ケ窪周辺でも追いやられてきた鬼が可哀想なので追い払わず「よそはよそ、うちはうち」など慰めるような言葉を掛けることもあります。鬼とは関係のない京都市福知山市にある大原神社では節分祭の掛け声を「鬼は内、福は外」としています。これは鬼=厄を神社が引き受けてあげるから、福は氏子の家庭にお行きなさいという意味であると言われています。そのほかにも鬼を改心させるという意味で「鬼は内」もしくは「鬼も内」と唱える神社やお寺もありますよ。

豆をまいていく順番についても決まりはないと紹介しましたが、こうした例を見る限り言葉にも決まりはないと考えられます。日本の「鬼」という概念は複雑かつ独特で、かつては神と鬼は同一のものだと考えられていたという説もあるほど。必死に追い出さなくとも、優しさを持って接してあげれば福の神に転じる可能性もあるかも。豆をぶつけて鬼は外と言うのは心が痛むという方の場合は、鬼は内でも良いのかも知れませんね。

節分の豆・恵方巻きイメージ

恵方巻き

節分間近になるとスーパーやコンビニなど到るところで見かける恵方巻き。節分の夜に年神様がいらっしゃると言われる方角「恵方」を向いて、無言のまま恵方巻きを丸かぶりすることで願いが叶う・無病息災や商売繁盛に繋がるという伝承がありますね。恵方巻きを食べる時に途中で止めては行けないのは「一気に頂く」という願掛けで、食べるのを中断してしまうと「運を逃す」という説もあります。

現在では全国区の行事食となっていますが、元は関西を中心に行われていた文化です。しかしその発祥は商家が縁起をかついで行った・花街の芸妓遊びのなかで商売繁盛を願って食べたなど諸説あり、いつ頃から行われ始めたものかもッキリしていません。分かっているのは戦後に一度廃れたものの、関西の海苔問屋さんのプロモーションで関西地域を中心に浸透し、1990年代の後半になってコンビニで全国されたのをきっかけに広まったという事。

21世紀に入ってからは全国の様々なお店で販売され、行事食として取り入れられるほどポピュラーなものになりました。太巻きタイプのものが定番ですが、ここ何年かはロールケーキなどスイーツの恵方巻きなども登場しています。

柊鰯(柊刺し)

柊鰯(ひいらぎいわし)や柊刺し・焼嗅など地域によっても呼び方は違いますが、柊の小枝に焼いた鰯の頭を指したもの。日本人から見てもシュールな見た目ですよね。恵方巻きが招福のニュアンスが強いものであるのに対して、この柊鰯は魔除け・厄除けとして飾られています。

柊は葉がトゲトゲとしていることが特徴。この柊の葉の棘は「鬼の目を指す」と信じられており、平安時代頃から魔除け・邪気払いとして大切な日に飾られていたことが分かっています。同じ理由から、地域によってはお正月の注連縄飾りにも柊の葉を使うところもあるようですよ。

焼いた鰯の頭は臭いによって鬼を撃退すると言われています。鰯を焼くと生臭いニオイが漂いますよね。理由は定かではありませんが、鬼はこの生臭いニオイが大嫌いなので嫌がって寄り付かないと言われています。逆に「鬼は生臭いニオイが大好き。食べようと近寄ってきたところを柊で刺す」というトラップだという説もあります。

ちなみに平安時代には鰯ではなくボラが使われていたそうですし、地域によってはニンニクなどを使うところもあるようです。臭いものであれば有効ということでしょうか。西日本では飾るだけではなく、焼いた鰯を自分たちが食べるという地域もあります。ともあれ柊鰯は鬼、厄災や不運を運んでくるものを寄せ付けないようにする厄除け・魔除けのアイテムとして扱われています。去年は嫌なこと続き…という方は飾ってみても良いかも知れません。

参考サイト:逆転した鬼?追儺、大儺之儀に登場する方相氏の意外な正体日本人はなぜ豆を投げるのか 「節分」民俗学

節分は鬼の仮面をかぶったお父さん・お母さんや先生に豆をぶつけるという、子供のテンションがかなり上がる行事。自分も小さい時には家族で豆まきをした覚えがありますし、祖母には「鬼は外の時は正面に向かって投げつけ、福は内の時はふわりと上に投げるイメージで」と習いました。大人になって一人で暮らしていると「鬼は外、福は内」と一人で唱えるのが恥ずかしくて行っていませんでしたが^^;

古代は今のように科学も医学も発達しておらず、天候不良も病気も全ては邪気とか疫鬼とか「なんか目に見えない悪いものが起こしている」という認識であったのだと思います。それを全て背負った存在として扱われている鬼が少し可愛そうに思える瞬間もあります。地域によっては鬼が悪者を退治してくれるという伝承が残っているところもありますし、神の一面であるという説もあるのにね。人にも自分にも優しくなれるようにと願をかけて、御神酒でもセットして鬼を接待してみようかなと思うこの頃です。