鏡開きはいつ? その意味・歴史とは?
…お餅・鏡餅が大切にされる理由も紹介
年末にお正月を迎えるために買った鏡餅。最近は餅ではなくプラスチックなどで出来た完全に飾り物としてのポジションのものもありますが、食べられる鏡餅を買ったら「これっていつまで飾っておいて、いつ食べるんだったかな」と気になる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
どこかで「鏡開き」もしくは「鏡割り」について聞いた気もするけれど…カレンダーにも書いていないし、もう売れているものなので七草粥のように店頭でも告知されていない、ちょっぴりマイナーな行事ですよね。しかし良い一年になるように縁起を担ぎたいならば注意が必要。とりあえず松飾りと一緒に片付けてストッカーなどに入れたまま忘れているのは、鏡開きをしていないと同じですよ。
目次
鏡開きをする意味や由来とは?
鏡開き(鏡割り)とは
鏡開きはお正月を迎えるにあたり用意した鏡餅を食べやすい大きさに壊し、それを食べる正月行事の一つです。
お正月というのは元々、新年の最初に一年間の幸福を運んできてくれる年神様(歳神様)をお迎えするという行事が始まりでした。松飾り・注連飾りなども年神様に来ていただくために設置するものですね。鏡餅については年神様へのお供え物であるという見解もありますが、同時に我が家まで来てくれた年神様の依代となるもの=滞在される場所であるという考え方もあります。いわば鏡餅は「神の宿ったもの」。松の内が明けると年神様はお帰りにならられますが、年神様の依代となった鏡餅には特別な力が宿っていると考えられてきました。
鏡餅には神霊や魂が宿っているから食べるのだと表現されることもありますが、これも食べる時に餅の中に神様がいらっしゃるというのではなく、残り香のような感じで神様のパワーが残っているというニュアンスですね。そんな神様の力の一部が宿る鏡餅を食べることで年神様の持つ力の一部を取り入れることで生きる力を頂く、神様に感謝しつつ一年間の無病息災・家庭円満など祈るということが鏡割りの意味と言えます。
鏡開きの発祥・歴史は?
鏡開きは平安以前の貴族文化・宮中行事ではなく、武家が発祥の行事であると言われています。はっきりとしたことは分かっていませんが、元々はお餅の方の鏡開きではなく、祝勝会や披露宴などで行われている“酒樽を割って祝い酒を振る舞う”鏡開きの方が古いと考えられています。と言っても、それ以前から神様にお餅を供えて下げた後に食べることは行われていたでしょうから、あくまでも「現在の鏡開き」の直接的な起原・語源という意味ではありますが。
室町時代頃から家に床の間が作られるようになり、武家では正月に鎧兜を飾ってその前に鏡餅を供えるようになります。この鎧や兜の前に橙や昆布・熨斗鮑などの縁起物と共に鏡餅が飾られるようになり、具足餅(ぐそくもち)や鎧餅・武家餅などと呼ばれるようになります。現在でも鏡餅には橙がよく乗せられていますが、具足餅はその原型であるとも言えますね。
供えられた具足餅は二十日正月というお正月モードの最終日である“締めの日”に下げられ、雑煮や汁粉などにして食べられていました。20日(はつか)という日にちが武士の魂とされていた刀の刃と柄に通じるとして、この行事は「刃柄の祝い」と呼ばれるようになります。別名具足祝い・具足開きとも呼ばれます。また具足や刃柄というのは男性のものでしたが、女性も鏡台に添えた鏡餅を割って食べることを「初顔の祝い」として食べていました。
ちなみに鏡開きの際には木槌などで叩いて割ることが多いですが、鏡餅を“割る”ではなく“開く”と表現するようになったのも武家のこだわり。現在でも地域によって呼び方は違いますし、包丁で切るという方もいらっしゃいますが、おそらく鏡割りや鏡切りではなく「鏡開き」と言うのが最もポピュラーでしょう。開くと言う理由については神様が宿ったものを切ったり割ったりするのは縁起が悪いからだとも、鏡餅を包丁などの刃物で切ることが切腹を連想させるとして嫌がられていたとも言われています。逆に開くというのは“開運”などとも言うように、広がっていくという意味で縁起が良いため選ばれました。
この武家発祥の鏡開きの行事は、江戸時代頃になると町民や農民などの一般市民へも広がっていきます。どこが発祥かは定かではないですが“同じ釜の飯を食う”ようなもので、同じ鏡餅を主従や家族で分かち合って食べると関係が密になる・絆が深まるという考えもありました。商家では新年になっての仕事始めである蔵開き・帳祝いでの小宴会で、開いた鏡餅を使った雑炊が振る舞われていたようですよ。また農家でもその年の豊作を祈って儀礼的な農事始めを行う田打ち正月・鍬初めなどの行事の際に、開いた鏡餅の一部をお供え物に、残りを自分たちで食べていたそう。地域によっては鏡餅の割れ方によって豊作を占うこともあったようですよ。
お餅を食べる習慣はもっと古い
お正月に供えた鏡餅を決まった日に木槌などで割って食べるという「鏡開き」については上記の通り、江戸時代になって一般まで広く定着したと考えられています。しかし武士が床の間に鏡餅を添えるようになった室町時代よりも更に前から、お正月行事とお餅は深い関わりがあったと言われています。
現在は赤ちゃんに丈夫な歯が生えることを願う儀式としてお食い初めとセットで行われている「歯固めの儀」も、平安時代には固いものを食べて歯を丈夫にすることで長寿を願う正月行事として行われていました。固いものの中でも長く伸びる餅は長寿に通ずる、としてお餅が歯固めの儀の定番の食材となったのだそう。日本では餅には神様に捧げる神聖なもの・神が宿る特別なものとして神事に欠かせないものでもあったということもあり、後に武士が床の間などに飾るものとしても使うこととなったのでしょう。
昔のお餅というのはお家で糯米を蒸して搗いたものですから、12月末からずっと飾っているとカチコチになってしまいます。あまり良い言い方ではないかも知れませんが、乾燥してビビ割れてきますし、硬さも石に近いくらいの感覚ですね。そのままでは食べられませんし、煮たとしても中まで柔らかくなることには外側がドロドロに溶けてしまうでしょうから、鏡開きとして行事化はしていない時代でも砕いて食べることはあったかも知れませんね。
鏡開きはいつ行う?
鏡開きは大まかには関東方面で1月11日、関西方面で1月20日というところが多いと言われています。しかし地域差も大きいですし、京都などでは1月4日に鏡開きを行うという地域もありますから一概には言えません。全国的に見ると1月11日を鏡開きの日としている地域が多いようです。
この差異は年神様(歳神様)がお越しになっている期間とされている「松の内」が地域によって異なるためです。鏡餅は年神様の依代でもあるため、年神様がお帰りになられてから鏡餅を壊すことになるという方式ですね。松の内は関東では七日正月(1月7日)・関西では小正月(1月15日)までとされていますので、どちらもその後に鏡開きもしくは鏡割りを行っているというわけです。
この松の内ですが、江戸時代初期までは日本全国で松の内は小正月までというのが定番でした。松の内の期間が関東を中心に早まったのは、三代将軍の徳川家光が4月20日(※旧暦)に亡くなったことがきっかけです。武士たちは将軍が亡くなった日との関わりから1月20日が忌日(月命日)にあたるとして避けるようになり、鏡開きが1月11日に行われるようになったと言われています。
また後の寛文2年(1662年)には徳川幕府によって「1月7日を以て飾り納めとせよ」という町触が出されています。この町触については年神様がいらっしゃる松の内の間に鏡餅を割るのも問題であるという宗教的な面も若干はあったそうですが、江戸は火事が多かったので燃えやすいものを早く下げて欲しかったという現実的な面の方が大きかったそう。ともあれ1662年の町触をきっかけに、江戸を中心とする関東エリアでは1月7日までを松の内とする風習が出来上がっていきます。
しかし古くからの伝統や文化が根付いており、そこまで江戸(徳川幕府)の影響を受けなかった西日本では依然1月15日までが松の内。また年神様がいらっしゃるのに鏡餅を壊して食べるということはせず、昔ながらの1月20日が鏡開きの日とされていました。近年は仕事の関係などから関西でも1月7日を松の内とする地域・家庭もありますが、西日本と東日本での差異は未だに残っていると言われています。
酒樽の蓋を開く方の「鏡開き」について
お正月の終わりに鏡餅を開く鏡開き以外に、お祝いごとの際に酒樽を割って皆でお酒を飲む「鏡開き」もあります。諸説ありますが武家文化が発祥であると言われる正月行事の鏡開きよりも、お酒の方の「鏡開き」の方が歴史は古いと考えられています。これは命をかけて闘うことが仕事であった武士達には、出陣の際に自分や味方の気持ちを鼓舞するために酒樽を割って振る舞うという習慣があったため。
これが鏡開きと呼ばれるようになったのは、丸い板で出来ている酒樽の蓋が鏡に似ていたからだと言われています。ただし酒樽の蓋を開くという行為が「鏡開き」の発祥であるというのは、ちょっと微妙なところもあるそう。月桂冠さんのサイトによると、江戸時代になるまで酒は木の樽ではなく焼き物に入れられていたのだとか。そのため酒樽の蓋を叩いて割るということよりも、床の間に飾った鏡餅(具足餅)を割って食べ初めた方が先とも言われています。
ただし神様にお供えするお酒“御神酒”があるように、古くはお餅と同様に米から作られている日本酒もまた神聖なものと考えられていたことは確実です。お米の国、日本らしいと言えるかも知れません。米から作られた酒を神様に供えて感謝と祈りを捧げた後、そのお酒を自分たちが飲むことは祈願の成就を願うことに通じるという風習もありました。武士たちが出陣前にお酒を振る舞って飲んでいたのも、景気付けというだけではなく、勝利して生きて帰られますようにという願掛けの意味もあったのかも知れません。
鏡餅にまつわるエトセトラ
鏡餅の起原・お正月に使われる理由
お正月に登場する鏡餅は、丸くて平たい形のお餅。大体のものが大と小の二段重ねになっており、私達の知る鏡とは全く似ても見つかない形状をしています。このお餅が“鏡”餅と呼ばれている理由は諸説ある、というよりも様々な要因が絡み合っていると考えられます。
お餅そのものが神聖なもの
日本で餅、その原料である米は古くから大切なものとして扱われてきました。
縄文後期から弥生時代にかけての時期に大陸から稲作が伝わり、古代日本人の生活スタイルは狩猟や採集を中心としたものから、農耕を中心としたものへと遷移していきます。そして作物の出来を左右する天候などの自然、そうしたものを司っている存在=神様を畏怖すると同時に、農耕が上手く行きますようにという祈りを捧げるようになります。
余談ですが神様というのは結構、人間的な人格をして語られることの多い存在。人間の思想や目線で語るのですから、当然といえば当然かも知れませんが。そうなると神様に感謝するにしろ、お願いをするにしろ、何もなしでただ祈るのではなく、お供え物が捧げられるようになります。現代でも目上の方にお世話になった時にはお中元やお歳暮を送ったりしますよね。昔は物もお金も今ほどありませんでしたから、神様への供物は狩猟で得た獲物・畑で食べられるところまで育った作物などが捧げられていました。
中でも当時はまだ収穫量がそこまで多くなく、作っている人にとってもご馳走であったお米も神様への捧げものとして扱われたと考えられます。また日本に最初に伝えられた米は現在ポピュラーなお米ではなく、餅になりやすい性質があると言われている赤米でした。そこまで加工が困難だったわけではないようですが、蒸してから搗くという手間を掛けて作られ、かつお米がギュッと濃縮されているお餅は最上級のご馳走であったのでしょう。
さらに当時のお餅は赤米だけではなく他の穀類や豆類などをまとめて搗いたもの。この様々な食材を使ったご馳走を神様に捧げて作物が無事にできたことを感謝し、次も無事に育ちますようにと祈ることが古代日本の宗教儀式だったと言えます。代々行ってきた風習の中で神様への供物=餅というイメージが根付いていたこともあり、後に大陸から暦や道教・仏教など様々な文化が伝わると、その季節行事や宗教行事に使う供え物としても餅が使われるようになっていきます。形こそ違えど、現在でもお正月だけではなく五節句や節分などにもお餅が使われますよね。
また日本には縄文時代頃から「稲作信仰」と呼ばれる考え方がありました。稲作信仰は単に季節行事を指す場合もありますが、稲には神様や精霊が宿るという考え方が根底にあると言われています。結構ややこしいですが、この稲に宿る神様は稲霊(いなだま)もしくは穀神(こくしん)と呼ばれており、弥生以降に成立した祖霊信仰と合致したことで稲霊にはご先祖様の霊も含まれているという考え方になります。
ともあれ、昔の人にとって米は神様もしくは精霊・先祖霊の力が宿った神聖な作物であると捉えられていました。お米を食べることはその神秘的な力を取り入れることになり、生命力を高めてくれる・悪霊を追い払ってくれると信じられていたと推測されています。稲作信仰は平安時代から朝廷が推奨して広がったことも米・お餅は特別な食べ物であると広く認識されるきっかけになったと考えられていますよ。加えてお餅そのものだけではなく、餅をつく道具である臼と杵も神聖視されるようになりました。
鏡餅の成立や、あの形の理由は?
地域差があることも指摘されていますが、古くから日本人はお米・餅を神聖なものとして扱ってきたことはわかりました。しかり弥生時代などに使われていた餅は赤米もしくはそれに雑穀類・豆類なども加えて搗いたもの。では私達が現在お正月にお供えしているような、白くて重なった鏡餅が出来たのはいつなのでしょう?
鏡餅という言葉・概念が成立したのは平安時代ではないかと考えられています。これは『源氏物語』の中に“歯固めの祝ひして、餅鏡をさへ取り寄せて”という記述があることに由来しています。また奈良時代に記された『豊後国風土記』には富者が餅を的代わりにして遊んでいるとその餅が白鳥となって飛び去り、米を粗末にした富者の田畑は荒廃したという話もあります。この話から奈良~平安初期には白い餅も作られていたと考えられており、『源氏物語』で書かれている鏡餅というのも白い餅を平たい円形にしたものであると推測されています。
ところで丸く平べったいお餅がどうして“鏡”餅なのでしょう。
これは丸いお餅の形を“鏡”に見立てて命名されたと考えられています。そのほかに円満な人間の霊魂を模っている・人の心臓を表しているなど、鏡餅の形状や由来については様々な説がありハッキリと分かっていないというのが正直なところではあるようです。が、一応有力なのは「鏡説」と言って差し支えないと思われます…。
当時の鏡というのは現在私達が使っているようなフラットなものではなく、形は基本円形であり盾のミニチュアの様な形をしている銅鏡。そして自分の姿を確認するための道具というよりも、祭祀・呪術道具としての意味合いが強いものでもありました。餅や杵臼と同じ様に、鏡にも神様や霊が宿るものという考え方もなされていました。同じく神が宿るもの=依代として使えることから、お正月にいらっしゃった年神様(歳神様)をお迎えするものとして統合されたという説が一つ。
また日本には“三種の神器”と呼ばれる、天皇が皇位のしるしとして受け継いだとされる三つの宝物があります。これは鏡・剣・玉の三つで、それぞれ八咫鏡(やたのかがみ)・天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)別名を草薙剣(くさなぎのつるぎ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)と呼ばれています。この“三種の神器”のうちの鏡に見立てて命名したという説もあります。ちなみに剣は串柿・玉は橙とされていますよ。
円形のお餅を重ねた、より現在の鏡餅に近い形状が確立したのは鎌倉時代頃。餅を重ねるのと福徳が“重なる”ことを掛けて「円満に年を重ねられますように」という願掛けになっています。
お年玉のルーツも鏡餅
現代の子どもたちの多くが、おそらくお正月行事の中で一番の楽しみにしているのがお年玉。現金以外に最近はプリペイドカードなども使われていますが、時代は変われど「お年玉をもらったら〇〇を買おう」とワクワクした記憶のある方も多いのではないでしょうか。現在は金品というか現金が主流となっているお年玉ですが、これも元々はお餅が使われていました。
お正月行事の根本は、一年の福徳を運んできてくれる年神様(歳神様)を迎えること。
年神様の依代兼供物として鏡餅が飾られますが、同時に鏡餅に年神様が宿ることで鏡餅自体が特別な力を持つ食べ物になるという考え方もありました。このためお供えした後のお餅は、家長が家族に分配して食べさせていたという面もあります。現在の鏡開きの起原でもありますね。
神様のお下がりの餅を食べるというこの風習は「御魂分け(みたまわけ)」と呼ばれており、餅そのものは御年魂もしくは御年玉と呼ばれていました。この御年魂という呼び名が時代と共にお年玉になった、年始めに家長から分配される賜物⇒年賜⇒年玉に変化していったなど諸説ありますが、原型が鏡餅にあるというのはどの説も共通しています。ちなみにお餅ではなく金品を贈るようになったのは室町時代頃だとか。
開いた(割った)お餅はどうする?
鏡開きは飾っていた鏡餅を下げることが目的ではなく、年神様の力が宿ったお餅を食べることが主眼の行事。無病息災を祈って食べるだけではなく、このお餅を食べることで新しい生命を頂くという考え方もありますから、特に前年に嫌なことや悪いことがあったなぁと感じている方は美味しく頂いてみてください。市販されているポピュラーな鏡餅であればカチコチになったり、カビが生えることもありませんし。
包丁で切るのは神様との縁を切ってしまうことになり縁起が悪いとも言われていますので、気になる方は開いて(割って)食べるようにしましょう。と言っても市販のお餅は乾燥しすぎ無いようにパッケージされていますし、住宅事情的に木槌やトンカチを使うのはちょっと難しい…ということもありますよね。搗いた餅を使う場合であれば、硬すぎて割れないということもあります。そういった場合は下げた鏡餅を数時間~半日くらい水に漬けておきます。少しふやけてきたら電子レンジなどで少し加熱して柔らかくすると、手で千切ることが出来ますよ。
お正月の定番だ、と何気なく買ってきて置いている鏡餅。しかしそのルーツを探ると神様が宿るものであり、神様への供物であり、神様の力の一部を写し取って自身に取り入れるためのツールでもある…となかなか入り組んだ構造をしているものですね。一石二鳥というか、三鳥というか。松の内と同様に「そろそろ片付けろよ」という日なのだと思っていましたが、新しい力を補給するようなニュアンスがあると思うとちょっと楽しくなりませんか?
鏡開きをした後は雑煮かお汁粉にするのがポピュラーですが、母の実家では油で揚げてかき餅にするのが定番だったそう。子供としては三が日でも食べていたお雑煮が再び出てくるよりも、お汁粉になるよりも嬉しかったそうな(笑)そのほかに餅ピザを作る・グラタンにする・揚出し風にするなど様々な使い方が出来ます。食べ方については何の規定もないので、お正月前後に雑誌などでも「お餅活用法」の特集が組まれていたりしますから参考に楽しんでみて下さい。我が家は軽く油で炒めてから砂糖醤油で和えたものが好評です^^
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