七五三にお参りをする意味・歴史について
-11月15日の理由、千歳飴の由来とは
七五三は7歳・5歳・3歳の子どもの成長を祝う年中行事。成長と健康を願うための参拝だけではなく、子どもの可愛らしい晴れ着姿を見るのを楽しみにしているご両親や祖父母の方も多いのではないでしょうか。写真だけ撮るなど変化もありますが、子どもの成長を楽しむ行事として日本人の大半は知っている行事でもありますね。
しかし、なぜ7歳・5歳・3歳にお祝いするのか、七五三の歴史はと言われると意外と知らなかったりしませんか? 七五三をお祝いする意味や歴史、七五三の定番となっている千歳飴の意味についてご紹介していきます。ちょっと暗い話もありますが、知るほど「子どもの成長に感謝する」日として大切にされてきたことが分かりますよ。
目次
七五三の意味と由来・日にちについて
七五三とは
七五三は子どもの成長を祝い、これからも元気に成長してくれることを願う年中行事。
呼び名の通り3歳・5歳・7歳の時に近くの神社(氏神様)に参拝し、子どもが無事に成長した報告と感謝、これからも元気で成長し幸せな人生をおくれるようお祈りします。また古来から続く伝統というわけではありませんが、近年は「可愛い我が子の晴れ姿を…」ということで参拝前後もしくは別日にフォトスタジオで記念写真を撮るという方も少なくありませんね。
現在は七五三というと“3歳・5歳・7歳の子どもが対象となる一つの行事”という捉え方をしている、もしくはそう行っている地域が多いですが、元々は3歳は髪置き、5歳は袴着、7歳は帯解きの儀と別々の儀式が行われていました。それぞれ子供の成長段階に合わせて行う別の儀式ではありますが、子どもが行う儀式としてまとめて「七五三」と呼ばれるようになり、一般庶民に広がる中で各儀式の風習が薄れていったと考えられています。
現在でも地域によっては年齢によって行うこと・祝う内容が違う所もありますが、どの行事も“神寺に詣でる・厄払いを受ける”という形で定着している地域が多いのではないでしょうか。3歳・5歳・7歳のお参りの際に異なるのは、身に着ける衣装・男の子と女の子でお参りする年齢が違うことくらいという地域が多いと思います。
地域によっても異なりますが、七五三のお参り・お祝いをする年齢と男女の違いは
3歳:女の子
5歳:男の子
7歳:女の子
としている地域が多いようです。もしくは3歳には男女ともに七五三のお参りをして、男の子であれば5歳・女の子であれば7歳の時にもう一度七五三のお参りに行くという地域もありますね。と言っても、近年では七五三の衣装も和服ではなく洋装にしている方、男女関係なく3歳・5歳・7歳全てお参りする場合もあります。このあたりは伝統と言うよりも、地域や家庭・お子さんのお友達との打ち合わせ次第と言ったほうが良いかもしれませんね。
3歳・5歳・7歳の理由
七五三の原型とされる子供の成長を祈る儀式はありましたが、古い時代は厳密に年齢が決まっていなかったと考えられています。これが「七五三」と呼ばれるように3歳・5歳・7歳と定められたのは江戸時代以降ですが、その理由については諸説あり断定されていません。
有力な説としては、五節句などと同じく中国から暦と共に伝わった奇数が陽数=縁起の良い数だという考え方の影響というものがあります。奇数は吉数だということで、子供たちの成長の節目の年としても奇数が良いと考えられたという見解が主流。逆に3歳・5歳・7歳を子どもの厄年と見做して厄払いとして七五三を行うと伝えられている地域や、神様から「3歳で言葉・5歳で知恵・7歳で歯を授かる」ことを感謝するという地域もあります。
参拝は11月15日?
地域や家庭によっても異なりますが、全国的に見た場合は七五三のお祝い・お参りと聞くと11月15日をイメージされる方が多いと思います。七五三のお参りが11月15日として定着したのは、江戸時代に五代将軍の徳川綱吉が息子(徳川徳松)の健康を祈る儀式を天和元年11月15日に盛大に行ったことがきっかけという説が有力。これが初めて11月15日に行なわれた七五三であるかは定かではありませんが、将軍が大々的に祝ったことで武家がそれに倣い、庶民にもその日にちで行うことが普及したという可能性は高そうですね。
11月15日が選ばれた理由としては、二十七宿の鬼宿日(きしゅうにち)との関係が有力視されています。鬼宿日という字面から良くない印象を持たれることもありますが、鬼宿日という言葉は「鬼が宿にいる(出歩かないので邪魔されない)」という意味があります。お釈迦様は鬼宿日に生まれたという伝承もあり、二十八宿の中では最も運気が高まる“吉日”とされています。結婚関係だけはNGなのですが、子どもの成長や無病息災祈願には最適な日として選ばれたというのがこちらの説。
そのほか陽数である7・5・3を足した数が15日=陽数が重なる日として縁起が良いから選ばれた、旧暦では15日は満月だったため氏神様に祈りを捧げる日として選ばれたなどの説もあります。
七五三の意味と由来・歴史とは
七五三の起原は髪置・袴着・帯解きの儀式
他の行事と同じく、七五三という風習も元々は平安時代頃に宮廷を中心に行なわれていた儀式が起原と考えられています。現在は「七五三」と一括りに呼ばれていますが、3歳のお祝いは髪置き(かみおき)の儀、5歳のお祝いは袴着(はかまぎ)の儀、7歳のお祝いは帯解き(おびとき)の儀…と、それぞれ異なる儀式から発展したものとされています。
2~3歳:髪置き(髪立て)の儀
江戸時代に入ることまで、生まれて間もない子ども(乳幼児)は男女関わりなく髪を剃るという風習がありました。赤ちゃんの髪を剃っていた理由は分かっていませんが、幼い頃に毛髪を剃っておくと太く健康な髪が生えると信じられていた・髪は不浄のものと見做していたなどの説があります。古い時代には現在のように毎日お風呂に入る風習はありませんでしたから、シラミ対策など衛生面の問題もあったと推測できます。
現在は髪型は個人の好みによって選べますから、スキンヘッドの方もいますし、女性のショートヘアも珍しくありません。しかし古い時代の日本では女性は“髪が命”とも言われるように長く伸ばした美しい髪が定番でしたし、男性も髪を結うため基本的には長髪。このため赤子から子供へと移行する2~3歳頃になると、髪を剃るのを止め、髪の毛を伸ばし始めるようになります。その髪を伸ばし始める時に行う儀式の名前が「髪置き」で、地域によっては髪立て・櫛置などとも呼ばれています。
現在では主に女の子の行事としている地域もありますが、古くは三歳までに男女ともに髪を剃るべしとされていたため男女差なく行なわれていました。年齢については公家では2歳、武家では3歳に行なわれることが多かったようです。行うことは時代や階級によっても違いますが、頭に白髪に立てた糸・真綿で作ったカツラのような帽子を載せていたようです。無事に髪が生え揃い、白髪になるまで長生きして欲しいという“予祝”の一つとも見れますね。
3~7歳:袴着の儀
こちらは「袴着」の文字通り、子どもが初めて袴を着けることが許される日。初めて袴を身に着けた子どもを大人がお祝いするだけではなく、吉方を向きながら袴に着替える・冠をつけて四方の神を拝む動作をするなど儀式的な動作も行なわれていたようです。
現在では子供も大人のミニチュア版のような服を着ることが多いですが、古くは髪型と同じく服装も大人・少年・子供・赤子と成長段階に合わせて決められていました。このため袴を身に着けるということは、子供から少年少女への変化を果たしたということになります。現在とは異なり、当時の少年少女というのは大人社会の一員でもありました。丁稚奉公などに上がる子供の年齢をイメージすると分かりやすいかもしれません。武家や公家であっても、身分に合った振る舞いが出来るように仕来りを学び始める年頃というわけですね。
「袴着」の儀式は大人の入り口に立てるまで成長した事を祝うだけではなく、子どもにも大人の仲間入りをしたという意識を持たせるニュアンスもあったと考えられます。行なわれ始めである平安時代頃は「袴着」の儀式は男女差なく行なわれていましたが、江戸時代に入ると男児だけの風習と変化していきました。
5~9歳:帯解き(紐落し)の儀
子どもの装いから大人と同じ服装へと変化する儀式には、袴着のほかに「帯解き」と呼ばれるものがあります。小さい子供は紐付きの着物を着せられていましたが、この日を境に大人と同じ本仕立ての着物を身に着けて帯で留めるようになります。袴着と同じく大人の仲間入りを祝う儀式であり、本人にも大人としての教養・振る舞いを身に着ける年齢になったことを意識させる意味があったと考えられています。
「紐解き」の儀式が行われるようになった鎌倉~室町時代には男女ともに9歳の時に行なわれていましたが、江戸時代に入ると男児は5歳・女児は7歳と年齢が分けられます。更に男の小の場合は袴着の儀と習合したこと、江戸時代中期になると女性用丸帯が考案されたことで、帯解き=女児が7歳になって初めて丸帯を身に着ける日として定着しました。
七五三は江戸文化? 関東発祥?
七五三の元となる儀式はそれぞれ江戸時代以前から行なわれていましたが、現在のような七五三の風習が庶民にまで広がったのは江戸時代中期以降の話。皇族や貴族など生活にゆとりのある人々は平安時代から髪置きの儀など七五三の元となる儀式を行っていましたし、鎌倉・室町になると力を持つようになった武士たちもそうした風習を取り入れたと考えられます。袴着が男の子の、帯解きが女の子の儀式として区分されるようになったのも江戸時代に入ってからですね。
七五三の風習が広まったとされる時期については江戸中期説から、大正説までかなり幅が広くなっています。これは特権階級の行事であった七五三を庶民が行うようになった関係から地域によって導入時期が異なること、髪置き・袴着・帯解きの3儀式をまとめて「七五三」と呼ぶようになったのは明治時代であるためと考えられていることが理由。
江戸では将軍の徳川綱吉が子供のために健康祈願をしたという説のほか、江戸中期に呉服屋が売上確保のため子供の晴れ着を着てお参りに行こうというキャンペーンを行ったという説もあります。下でご紹介する千歳飴も江戸中期頃、子どもの健康を祈るために浅草寺に参拝する庶民をターゲットにしていたと伝えられています。こうした話から江戸時代中期~後期にかけての時期には、関東圏ではある程度裕福な庶民にも七五三詣りのような風習が広まっていたと考えられます。
逆に上方では子どもの成長を祝い幸せを祈る“十三詣り”の風習が盛んだったことから、江戸(関東)の文化である七五三詣でが行なわれるようになったのは遅かったそう。また「七五三」という呼び名が定着したのは明治時代で、江戸時代の間は袴着の儀、帯解きの儀に準じる祝い方がなされていたと考えられます。現在のような簡略化された七五三詣で(お参り)と宴席という形に変化したのは大正時代以降のようです。
七五三が祝われるようになった背景
七五三は子供の成長を祝う・願う行事とされていますが、現在は普段は着ないような衣装を着せてご馳走を食べる“お祝い”という意味合いが強いのでは無いでしょうか。しかし昔の七五三は、現代よりも重きをおかれた風習であったと考えられます。ちょっと暗い話にはなりますが、昔の人にとって七五三の行事の重要性を理解するには当時の事情を知るべきだと思うので簡単に紹介させていただきます。
現在でも発展途上国などでは乳児から子どもの死亡率が高いことが報じられていますが、古い時代の日本も同じこと。現在の乳幼児死亡率の原因は貧困との関係が深いですが、医療や衛生面での知識が格段に低かった昔は上流階級の子どもでも死亡率は低くありませんでした。七五三のお祝いが11月15日に定着した由来とされる徳川綱吉の息子徳川徳松も、わずか5歳で亡くなっています。庶民よりと比べると食事や医療体制に雲泥の差があっても亡くなってしまったあたりからも、当時の子どもが成長するのがどれだけ難しいことだったかが分かりますね。
「七つまでは神の内」という言葉もあるように、生まれた子どもが成長できるかは人の力の及ばない領域。このため生まれた子供がすくすくと育つのか、すぐに亡くなってしまうのかは本人の運・神様のご機嫌次第と考えられていました。「神様のもの」という言葉は子供の成長は運次第と言うだけではなく、子どもを「神様にお返しした」と思わないとやっていけなかった親の心が滲んでいるように感じますね。
こうした理由から古くは死亡を届け出なくても良いよう、戸籍(人別帳や氏子台帳)の登録も生まれてから3〜4年後というのが一般的だったようです。地域によっては七つまではではなく「三歳までは神様の子ども」という考え方をしていたところもありますし、特に死亡率が高かったのは三歳までという見解もあります。昔は誕生日という概念がなく数え年で年齢を決めていたため、七五三の始まり、三歳というのは一つ目の試練の時期を乗り越えた時期と言えますね。神様に感謝を捧げるのも、これからも無事に成長してほしいと願うのも、今よりももっと切実な問題だったのではないでしょうか。
そして七五三の最後となる七歳。ここまで無事に育でば神様の元へ呼び戻されてしまう=子どもが亡くなってしまう可能性はかなり低くなったようです。このため七歳のお祝いは無事に育ってくれたことを神様・ご先祖様などに感謝し、これから大人になっていく子どもをお祝いしたり戒める意味合いが強いものになったと考えられます。氏神様へとお参りして子どもの成長を感謝するとともに、神様の領域から、人の社会の一員になることを認めてもらう儀式の意味合いがあったという説もあります。
七五三は農村の間引きが由来という説も?
上記でご紹介した髪置き・袴着・帯解きという儀式が武家社会の中で変化し、さらに一般に広がるにつれて現在の七五三行事になったという見解が有力です。しかしそれ以外にも、信憑性は低いものの「七五三の由来は怖い風習」などという言葉で紹介される別説があります。それは農村部を中心に行われた悲しい“間引き”の風習が由来の、民間行事であるという説。
当時、間引きをするかどうかの最終決定権は概ね村長にあり、ムラ単位で決められるため両親が拒絶しても強要されることもあったそう。各地に伝わる“神隠し”の伝説も、こうした風習を湾曲して伝えているものという見解もあります。緊急時には幼い子どもを殺してしまうことがあっただけではなく、子どもが一定の年齢に達すると村長が子どもの健康状態を確認し、将来労働力として役に立たないと判断した場合は捨てるか殺すかしたという説もあります。
この説はデマ…とまでは行かなくても、誇張表現だと個人的には思っていますが。
貧しく苦しい日々を過ごしていた昔の人々であっても子どもは可愛いもの。七五三の起原というからには毎年七歳になる子どもの確認をしていたことが前提となりますが、豊作が続いている状態で子どもを捨てる・殺すという判断をしていた可能性は低いと思います。
間引きと同じくらい信憑性は微妙な話ですが、エビス様を漢字で書くと蛭子となり不具の子として流されたヒルコ(イザナギとイザナミの最初の子)であるという説や、幸福を招く福助人形の名前やモデルが不具(身体障害者)であるなどの説もあります。昔はオカルトじみた伝承や間引きの風習があったことは否定しませんが、村人の何割が生き延びることが出来るか…という状態になった際の想定はさておき、定期的に村長が弱い子どもを指名して捨てていたと風習が七五三の起原というのは極論過ぎるように感じます。
千歳飴も江戸時代から存在した
七五三の定番と言えるのが、細長い棒状で、紅白に色付けされた千歳飴(ちとせあめ)。七五三のお宮参りに行くともらえることが多く現在でも着物を着て千歳飴を持っているお子さんを見かけますし、そのお父さん・お母さん世代の方も七五三のお参りに行って千歳飴を貰った記憶がある方が多いのではないでしょうか。
現代でも多くの方が目にしたことのある千歳飴。こちらも普及するようになったのは江戸時代とされています。ただし千歳飴の元祖については2つの説があり、どちらが起源と言えるのかについては意見が別れています。1つ目は1615年に大坂の平野屋甚左衛門が江戸に出てきて、浅草寺の境内で細長い“千歳飴(せんざいあめ)”を売り出したという説。もう一つはそれよりも少し後の元禄・宝永年間に浅草の飴売り七兵衛が“千年飴(寿命糖)”として浅草で売り出したという説。
どちらが元祖かは分かりませんが、細く長い飴を食べると長寿に繋がる飴として売り出された千歳飴(千年飴)は大ヒット。神社境内で売られていたこともあり、浅草で七五三=髪置き・袴着・帯解きなどの参りをした際のお土産として江戸庶民たちが購入し大繁盛したと伝えられています。七五三を迎えた子供にあげるだけではなく、頂いたお祝いの“お返し”として買って帰ることも多かったのだとか。
江戸時代の宣伝にも使われたように、千歳飴は細長い形状をしているのが特徴。この形状は細く長く続く=長寿を意味しており、飴を使ったことで「引っ張ると伸びて、粘り強い」から更に無病息災や不老長寿に繋がると言われています。実は現在でも千歳飴には直径約15mm以内、長さ1m以内と規定がありますよ。
近年は紅白以外の色も使われていますが、紅白もまた厄除けにも通じ縁起が良いということで選ばれています。また、飴を入れる袋にも無病息災の意味がある松竹梅・長寿の象徴である鶴と亀などの縁起物がデザインされています。千歳飴は単なるお菓子ではなく縁起物と言えますね。
現代の七五三の祝い方について
男の子・女の子の年齢、服装は?
元々は男女差の無い儀式であったと言われていますが、江戸時代の風習から七五三は年齢によって男の子の行事・女の子の行事と分けられることが多くなっています。全国的には
3歳:女の子(もしくは男女両方)
5歳:男の子
7歳:女の子
という風に分けている所が多いのですが、このあたりも地域によって異なる可能性があります。男女分けずに行なわれている地域もあるようですし、各家庭の考え方・お友達との付き合い方などでも変わってきますね。神社や写真スタジオなどで「3歳は女の子なので、男の子は駄目です」と言われることは基本的にありませんので、家族や地域の知り合いなどと相談して決めると無難です。
そしてもう一つの迷いどころ、服装。
男の子は紋付き羽織+袴、3歳の女の子は肩揚げをした着物(帯なし)+被布、7歳の女の子は揚げ(肩揚げ・腰あけ)をした本裁ちの着物に帯という服装が正式とされています。3歳の男の子の場合には紋付き羽織+袴以外に、被布姿で参拝するという方もいらっしゃいます。ちなみに被布というのは袖なし被布、ベストの様な羽織のことを指します。
ただし最近はレンタルが多いので紋付きではないものでも構いませんし、お子さんの着やすさ・動きやすさを考慮して洋装を選ぶ方もいらっしゃいます。お子さんが楽しく過ごせることも重要ですから、お子さんの好みに合わせるのも大切です。特別な日なので晴れ着を着せてあげたいところですが、用意が間に合わなかったり、汚してしまったなどのアクシデントがあれば普段着でもOK。重々しい宗教儀式ではなく「子供の成長を祝う・願う」イベントですから、形式に囚われすぎずお子さんの希望を叶えてあげて下さい。
お参り・ご祈祷は必要? 日には?
七五三詣では神社にお参りします。祝詞を上げてもらう・お祓いを受けるというフルコース(?)参拝をされる方もいらっしゃいますが、ただ神社に参拝して子どもの成長や幸福を祈願するという方も多いようです。参拝して神様に感謝を伝えるだけでも全く問題ありませんから、気持ち次第というところですね。また参拝はせずに記念写真だけを撮るという家族も年々増えているそうですから、家族やお友達と相談して決めると良いのではないでしょうか。
七五三のお参りとしては11月15日というイメージがありますが、こちらも近年はそこまでこだわる必要はありません。7歳になると学校もありますし、ご両親の仕事の都合もありますから、家族が参加しやすい日にちをチョイスすることが多くなっています。15日やその前後の土日は混雑することもあるので、時期を少しズラすというご家庭もあります。また北海道など寒冷地では寒さ・雪の関係もあり一月繰り上げた10月15日頃に行う地域も珍しくありません。この場合は10月15日前後の土日に参拝される方が多いようです。
ただしお参りはいつでも出来ますが、祈祷の受付期間が決まっている神社もあります。神社によって事前受付(予約)が必要・当日受付で良いとしているところがありますので、ご祈祷・お祓いをして欲しい場合は事前に確認しておきましょう。ご祈祷を受ける場合は謝礼が必要。玉串料・初穂料と書いた祝儀袋にお金を入れて持っていきましょう。様々なサイトで相場が公開されていますが、神社ではホームページに規定料金・目安金額を載せているところも沢山あります。不確かな情報よりも、まずは自分が行く神社のサイトを確認することをお勧めします。
年齢は数え年? 満年齢?
七五三は昔から行なわれてきた行事ですので、元々は“数え年”の考え方の年齢で行なわれていました。数え年というのは基本的に生まれた年を1歳と考え、元日が来ると一つ年齢が増えるという考え方。ゼロの概念と、誕生日というものを無視した年齢計算法と言えば分かりやすいかもしれません。対して“満年齢”は普段私達が普通に使っている年齢の方で、誕生した時を0歳、誕生日を迎えるたびに+1歳として計算していきます。
昭和頃まで数え年をメインにしていることが多かったようですが、現在は満年齢で3歳・5歳・7歳になった時に七五三のお参りをする方が多いようです。どちらの年齢で行くべきかについては「どちらでも良い」という考え方が主流。お爺ちゃんお祖母ちゃんなど親類との兼ね合いや、ママ友などと相談して決めるのが確実でしょう。早生まれの子だからクラスの子と七五三をするタイミングを合わせるのに数え年で行った、兄弟(姉妹)で一緒にできるように片方は満年齢・片方は数え歳で数えたという話も聞きますよ。
参考サイト:日置建設株式会社 瓦版11月号/千歳飴の由来や意味!なぜ七五三には、千歳飴なの?
子どもの可愛い晴れ姿が見られる七五三。私は子どもがいないのですが、道路などで晴れ着を着た子ども達を見るとホッコリします♪七五三の日程や性別・服装などについては決まったものではなく「家族と主役の子どもが納得できる形でOK」。後々思い出話をしたり、アルバムを見て盛り上がれるような楽しいイベントを目指しましょう。お父さんお母さん(&祖父母)の希望もあるとは思いますが、主役になるお子さんの要望も叶えてあげて下さいね。
余談ですが。神様はお参りをしなかったからと言ってバチを当てるようなことはありませんが…悲しいことに人間は別。一人だけ浮いた格好だったり、年度が違うと子供同士のからかい・イジメに発展する危険性がないとは言い切れません。会いたくない人に限って遭っちゃったりしますよね。特に女の子の7歳はデリケートなので気をつけてあげて欲しいなと個人的には思います。パパさんもある程度かっちり感のある服装をするのが無難かと←若干苦い思い出があったりする^^;
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