【30秒でわかる】こどもの日/端午の節句とは?

【30秒でわかる】こどもの日/端午の節句とは?

【30秒でわかる】端午の節句/こどもの日とは

端午の節句とは、江戸時代まで祝日とされていた“五節句”の1つで5月5日のこと。
五節句とは、5つの季節の代わり目として重視されていた節目のことです。1年の中の節目、境目になるため、季節に適した植物を取り入れることで邪気を払うという風習が生まれました。端午の節句(5月5日)は菖蒲湯に入るなど、菖蒲(しょうぶ)を使った風習があるため菖蒲の節句とも呼ばれます。

こどもの日も同じく毎年5月5日。
こちらは現代日本で定められている「国民の祝日」の1つです。

端午の節句と同じ日なので、男の子の日というイメージも持たれがち。ですが、こどもの日は“こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する”ことが趣旨。男女差のない祝日です。お子さんのいる家庭でお祝いする日というだけではなく、「世の中のこどもたちの幸せを考える」「母に感謝する」などのきっかけにしたい日でもありますね。

端午の節句/こどもの日:補足マメ知識

五節句とは何か?

五節句とは、季節の代わり目、一年間の中の節目として重視されていた5つの日のこと。

五節句の起源は古代中国。当時の中国には陽数(奇数)が重なると陰に転じる=良くないことが起こる、という考え方がありました。節目というのも物事の境界ですので、悪い方に転じないように季節の植物を取り入れ、邪気を払おうとおう考え方が生まれます。

日本でも奈良時代頃にこの風習が伝わり、季節行事のように行われてきました。江戸時代には幕府が公的な祝日として“五節句”を定めます。明治に五節句は廃止されましたが、今でもお雛様や七夕、端午の節句の菖蒲湯など民間行事として親しまれ続けています。

ちなみに、五節句が入りされた明治では、暦を太陽暦(グレゴリオ暦)に改暦しています。
奈良時代から続く五節句は旧暦の行事。なので、新暦になったことで日付が変わるはずですが、五節句のポイントは「奇数が重なる日」のため新暦でもカレンダー上の日付で行われています(※一部地域を除く)。

端午の節句はなぜ「男の子の節句」か

5月5日の端午の節句は「男の子の節句」、女の子の成長を願う3月3日の桃の節句(ひな祭り)と対になる存在として定着しています。

元々は季節の変わり目の邪気払いだったのに、何故男女差が……と思いませんか?
実は、これは武士社会が大きく影響しています。

端午の節句は別名“菖蒲の節句”。
武士が力を持った時代、菖蒲(しょうぶ)が尚武や勝負に通じると考えられ、武士たちは五節句の中でも殊更に菖蒲の節句を重視しました。最初は武士として活躍する自分自身のために幟を立てたり、鎧兜などの武具を飾っていたようですが、時代とともに“自分の跡取りである男の子の健康・健やかな成長を願う”ニュアンスも追加されています。

安土桃山から江戸時代に、端午の節句=男児の成長祈願として定着していきました。

▼端午の節句の由来や変遷はこちら

柏餅や鯉のぼりなど、菖蒲と関係ないもの多くない?

なぜ菖蒲の節句に柏餅を食べる?

5月5日は菖蒲の節句、ですが菖蒲湯だけではなく“柏餅(かしわ餅)”も菖蒲の節句/こどもの日の行事食として定着しています。

5月5日に柏餅を食べる風習は中国にはなく、日本独自の文化。
柏餅を食べるようになったのは江戸時代中期頃、子孫繁栄を願う縁起物として売り出されたことがきっかけと考えられています。柏の葉は、新芽が育つまでは古い葉が落ちない=血を繋ぐ(家が途絶えない)ことに通じると考えられたのだとか。

なぜ菖蒲の節句/こどもの日は鯉のぼり?

こどもの日の風物詩と言えば、鯉のぼり。
沢山の鯉のぼりを、GWの観光誘致に使っている地域もありますね。

菖蒲の節句とは全く関係ない鯉のぼりも、武士が菖蒲の節句を重視したことから生まれた日本独自の風習。元は武士が「自分たちの名を高めるぞ」「我らはここにあり!」といった形で、家紋の入った旗・幟(のぼり)を飾ったのが起源とされています。

時代とともに端午の節句は男の子の成長を願う行事になり、江戸時代には町民たちも生活に取り入れます。江戸時代の町人は名字も家紋もありません。商家には屋号などがありましたが、庶民がお武家様と同じように幡や吹き流しを揚げることは許されていませんでした。そこで、立身出世の縁起物である“鯉”を描いた旗を飾るようになります。シンプルな旗は徐々に鯉らしい手の込んだ形に変わり、縁起の良さから後に武家でも鯉のぼりを飾るようになっていきました。

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